SFマガジン今月号の編集後記で浅倉久志氏の死去を初めて知り、言葉を失う・・・。
ここ数年でレム、クラーク、ヴォネガット、ベイリー、バラード、ディッシュに野田氏、柴野氏とSFの大家が数限りなく鬼籍に入り、そのたびにショックで落ち込んだがこれは極めつけだ。
自分はSFを読み始めたのは高校生の頃とかなり遅かったが、すぐに浅倉久志氏の名前は覚えた。彼の名で訳されたSFにはほぼ外れがなかったからだ。幻想文学の浅羽莢子と並んで訳者名で即買いができる数少ない翻訳家であった。
SF読み始めの頃にあまた読んだ名作の中でも特に印象に残ったのが、ベイリーの「時間衝突」と、氏が訳したディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の2冊だ。確かどちらも最初の10冊くらいの間に読んだはず。
ベイリーは大森望訳で主旨から少し外れるが、その奇抜な着想に度肝を抜かれ「ああ世の中にはこんなもの凄いことを思いつく連中がいるのか」とSFにおける「驚きの感覚」というものをもたらされた初めての作品で、大事な思い出である。
浅倉訳・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」はそれとは少し方向性が異なる。
存在論的な不安感、人間性への疑念、世界への違和感といった深遠なテーマを、アンドロイドにバウンティハンター(賞金稼ぎ)といった怪しげでチープな道具立てを使って見事に描き出していた。この本を読んだとき、「SFはこういったものまで表現することができるのか」と感激して、確信を持って一気にはまっていくことになった。
この本の初読了時に「おれは今すごいものを読んだ!」とほとんど酩酊状態の余韻で浅倉氏の後書きを読み始めて「~傑作だとの確信はゆるがなかった」の下りを読んだときはうんうん、と心から首肯したものだ。この1冊は内容、翻訳、カバーイラスト(旧版の羊のイラストの大きいやつが個人的にはベスト)、後書きとすべてが渾然一体となった奇跡的なまでの傑作で、これまで1000冊近く読んできたが、自分的ベスト5に今でも入ると思う。

他に浅倉氏の訳書として思い出深いのは、エフィンジャーの「重力が衰えるとき」。
これもオールタイムベスト10に入れたいくらい好きな、電脳ものでは一番面白いと思った作品(次点は「スノウクラッシュ」)。ちなみにこのブログのタイトル元ネタであるラファティの「つぎの岩につづく」も実は浅倉さんの訳であることにいまさらながら気付いた・・・。
浅倉氏の訳書は誰でも読める平易な表現を用いており、まったく引っかからずにつるつると読み進めることができる。原語より読みやすい、といった評を聞いたこともしばしば。奇をてらった訳語が目に付くケースもほとんどなく、ぴったりの訳語を発見する優れた言語感覚があったのだろう。作品の選定眼も素晴らしく、ハヤカワの文庫に入っている訳書でつまらないものはほとんど無かった(思い出せる限りではブリッシュの宇宙都市シリーズ、ヴァンスのノパルガースがイマイチだったくらい)。後書きがまた素晴らしく、必要な情報を整理して提出し、独断や独りよがりな意見をあまり述べず(その点で「アンドロ羊」の後書きは少し異質、あまりの傑作で筆に熱が入ったのだろう)、品のある素晴らしい文章で後書きを読むのも一つの楽しみであった。
国書の「ぼくがカンガルーに出会ったころ」でそのほとんどが読むことができるのは喜ぶべきことである。
浅倉氏の紹介してくれた数々の名作が無ければ、自分がSFにここまではまることは無かったはず。心から残念である。
洋書SFにはチャレンジしては挫折してばかりだが、氏を偲んで「Do Androids Dream of Electric Sheeps? 」でもちびちび読んでみようかと思う。

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